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3月 10日
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政治家たちの人間の質がどうにも悪いときには、権力を分散させてその力の方向が偏らないようにするのが民の知恵ではないでしょうか。
どこの政党を支持していれば安心とか、誰に任せておけばよいとか、という民の姿勢では、下手をすれば偶像崇拝まがいの
「誰かに頼る(自分の運命を他人に預ける)=全面的に依存する」ということと同じように、私には思えるのです。
「だれかいい人(政党)を選んで、その人(政党)についていく」という発想は、結婚であればそれもひとつの道としてまだ残っているのかもしれませんが、
複雑多岐にわたる課題を適切に判断していく政治の仕事を任せるには、「いい人(政党)」を探す発想だけではダメではないかと思います。
議会政治においては、多数決が事案の最終決定の方法なのですから、「数のバランス」という発想・視点は必要不可欠と思うのです。
権力全体を見て、(今の与党のように独断専行がまかり通らないように)力が分配されてバランスされるにはどこに票を集める(あるいは分ける)べきか
よく考えるのが、私達国民にとって益(専制的な権力に振りまわされる危険を回避する)となる方法だと思うのですが、どうでしょうか。
「自民党は嫌だが、民主党では頼りない」という意見をよく聞くのですが、これは“誰かに依存しようとしている人”の発想に思えてなりません。
そもそも、今のように与党に過半数の議席を与えた状態では、何をどのように審議しようとも、「審議した」という既成事実を与党に与えるだけで、
最後は強行採決で(「審議」しようがしまいが、予定通り)与党案が通過するだけになっています。
国民が野党から“一定数という武器”を取り上げ、素手で戦う(審議拒否)しかない状態にしておきながら、「野党は情けない、頼りない」と、
一方的に批判するのはいかがなものでしょうか。
とにかく、安倍内閣の、「人権を軽視」し、「歴史を直視することから反省と教訓」を学ぶこともできず、また駆け引き下手の外交を工夫せず、
「武力による力の外交復活」だけに頼ろうとするがために、国際社会からわざわざ孤立してしまうようなことを平気で目指すような人たちによって
つくられる「憲法」など真っ平御免です。
今、憲法を本当に改正したいという人がいるならば、国民の側からまず憲法草案を立案するくらいの意思と実行力がなければならないはずです。
プライドが好きで国民生活を圧迫しようとも、武力で世界から恨みを買ってでも、世界一(アメリカの次だから世界二か)の国家元首を目指したい
権力者とその従者たる官僚が、まさか本気で弱者の立場に立った「憲法」をつくってくれる、などと、どうして信じられましょうか。